白壁の町に住み継ぐ家

この物語は、私達親子二世代の家を建て替える模様を描いたドキュメントです。
主人公は私・妻・子供の子世帯と、父・母の親世帯です。

第一章 序章 第一章|第二章第三章第四章第五章第六章第七章第八章第九章

第一節 羽島の家

倉敷の美観地区からほど近いところに、私達家族の実家はありました。幾度か改装を重ねてはいますが、黒い焼杉の壁に白漆喰の真壁という、いかにも昔からの屋敷という面持ちの家です。最も古い母屋は既に百二十年を経過しているといい、その屋根は本瓦で葺いてあります。北西の角には蔵もありました。

その界隈にはこうした古い家が多かったのですが、徐々に新しく建て直されています。とはいえ、入母屋の瓦屋根の家であることも少なくない様で、そういう家は「本家普請」と言われています。今はもうなくなってしまったこの家を、ちょっと思い出してみましょう。

 正面(南側)から見た羽島の家。

家の周囲には瓦の乗った焼杉と白漆喰の塀が、南側正面には瓦屋根付の門がありますが、これはそれほど古い物ではなく、戦後作られたものです。

門を入って左手には六畳の離れ一部屋のついた納屋があり、昔使っていたらしい農機具類が放置されたままになっていました。納屋右横に土間があり、家族の者はここから家の中に入るのが常で、玄関は普段は鍵が閉められています。だから玄関に靴箱はありません。

土間の奥には昭和三十年代に改装されたらしい八畳の台所があります。古ぼけたクリナップのステンレスキッチンはその後に据えられたと思われます。
タイル張りの出窓が北側に張り出しているので、台所はこの家の中でも特に明るい部屋です。台所の勝手口を出ると土間があり、蔵の入口が間近に見えています。もっとも勝手口の前には物が置かれていたので、あまりそこを使ってはいなかった様です。

台所の横には風呂場があります。二坪もあろうかという広い場所には小さなステンレス浴槽と、おばあさん介護用の長いFRP浴槽がありました。ここへは台所から直接入れる様に、小さな戸が後から追加されていました。

風呂から洗面所を出ると、四畳半の部屋になります。ここは家族の者が土間から家に入る場所でもあります。その部屋の隣の、やはり四畳半の部屋がこの家のほぼ中心にあたる部屋です。ここにはいつもおじいさんの炬燵が置かれているおじいさんの定位置で、それはおばあさんの葬式当日まで決して動かされることがありませんでした。この部屋には二階へ上がる階段がありますが、普段上がることのないその階段は格好の小物置き棚と化していました。階段の下にはテレビが置いてありまして、おじいさんはこのテレビの見やすい位置に座っていました。

 四畳半のおじいさんの居間の階段。

この部屋には、娘孫二人の幼い頃の写真も飾られていました。おじいさんの吸う煙草のヤニで褐色になっていましたが。

さて、玄関を入ると正面が小さな床の間のついた四畳半の部屋、続いて右隣にもう一つ四畳半の部屋、その奥に八畳の部屋と、畳の部屋が三部屋続いています。間の四畳半の部屋の奥が、おじいさんの炬燵のある部屋に当たります。八畳の部屋には一間の床の間と一間の押入があり、壁には古い墨絵や書の額がかけられていました。八畳の部屋とその続きの四畳半の部屋には半間の縁側があり、おじいさん自慢の庭がそこから眺められます。

 玄関間から四畳半・八畳の和室二間。

四畳半の部屋の鴨居には大きな神棚があり、幾つもの神様が奉られていました。その左横にはえびすの面を奉った棚もあり、鯛や小判のついた戎の笹も飾られていました。この部屋の柱には、ネジを巻く古い柱時計があり、今でも動いています。時刻を告げる鐘の音が振り子一往復で二つ鳴るので、とてもせわしなく感じます。

おじいさんの炬燵の部屋の奥は三畳程の部屋、というより廊下があり、ここに先祖の位牌が数多く納められている仏壇が置かれていました。その奥にはやはり昭和に増築されたおじいさんとおばあさんの寝室があります。壁にはおばあさんの嫁入り箪笥が納められていて、丸窓の障子がある床の間もあつらえられていました。おばあさん用には電動で起こせる介護用ベッドが置かれ、おじいさんもその横に自分用のベッドを置いて並んで寝ていました。

八畳の部屋の奥は六畳の部屋があり、普段は布団置き場になっていますが、お客が泊まりに来たときの寝室としても使われていました。この部屋の北側には、廊下を挟んで二坪ほどの坪庭がありました。方角的には「鬼門」に当たるので部屋にせず坪庭にしていたのではないかということです。坪庭を右横に見る位置に便所もあります。おばあさんの葬式の後、父が水洗便所に改装させていました。

二階は昔の造りなので、天井が低く圧迫感があります。押入には古い布団と、父やその弟妹の教科書・帳面がしまってありました。小さな窓の上の柱には父が学生の頃チョークで落書きしたものがそのまま残っていました。
『黙々 but 徹底 is my principal』
押入の横には、昔冠婚葬祭に使っていたらしい二十ずつ揃えられた食器類が、漆塗りの膳や椀と一緒に置いてありました。

その部屋の隣は八畳間の上になりますが、ここは天井が高くなっているので、二階としてはその分床が上がっています。ここには大きな長持が五個ほど置かれていましたが、取壊し前の片付けの時に確かめるまで、父も母も中身に何が入っているのかは知らなかったそうです。屋根裏の物置なので天井は張っておらず、屋根の梁や野地板がそのまま見えています。長い年月放っておいたので、屋根の土が落ちてしまっていました。

蔵の中へは、台所隣の土間側にある入口から入ります。重い木の引き戸と金網の戸。

 蔵の入口。

壁は土がそのまま出ていて、床も土で埃まみれになっています。ここも農機具やら大きな米缶が置かれていました。特に二階には古い農機具が多く放置されていました。
蔵の二階は蔵の屋根がそのまま見えます。一抱えもあろうかという太い梁が組んであり、風格を感じさせます。ここから台所隣の土間の二階へ行くことも出来ます。つまり蔵は独立しているのではなく、母屋と納屋に繋がっていたのです。
この蔵は明治末期に建てられたそうです。

縁側から見える庭には松の木が数本、楓が二本、他にもさつきの様な背の低い木が数本と、庭石が大小合わせて十近くあります。地面には苔や羊歯が年中生えているのでいつも湿っています。

おじいさんとおばあさんが二人だけで住んでいた、おじいさん自慢のこの家を、家族の者はその地名から『羽島の家』と呼んでしました。

 

第二節 空き家

一九九六年五月、長らく介護を受けていたおばあさんが逝去しました。親族が集まりバタバタと葬式を済ませましたが、その後喪中の御看経(おかんき:親族が集まりお経を読み上げる)を毎週行うことから、週に一度、夜仕事が終わると羽島へ通う様になりました。

三十五日が過ぎて当面の法事が片づくと、おじいさんは一人で暮らすことになりました。

戦争に行き肺を撃たれ、年を取ってからは酸素吸入をずっと手放せないおじいさんでしたが、自分で食事を作り、それでいて煙草も止めず、近所からは難しいじいさんで通っていました。いや、家族・親族の中でさえおじいさんの言うことに口答えできる者はいなかったのです。

そのおじいさんも翌年正月、おばあさんの後を追うように他界しました。おじいさんは長男で4人兄弟の上から2番目、その中では一番早く逝ってしまったことになりますが、八十八歳の往生は天寿を全うしたと言えるでしょう。

おじいさんが亡くなり法事も片づいてしまったら、「羽島の家」は空き家となってしまいました。

おばあさんが亡くなる少し前から、「羽島」に引っ越すことを漠然と、しかし現実的に考え始めていました。
どのみちいずれは、別の土地に住んでいる父・母共に、羽島に住むことは決めていたのです。『おじいさんが死んでから引っ越すと、おじいさんが死ぬのを待っていた様で嫌』と妻は言いますが、だからと言って今の羽島の家にそのまま住みたいとは思ってはいませんでした。家の中は日当たりが悪くいつもじめじめしていて、当然隙間だらけなので、冬は暖房が効かずやたら寒くなります。夏はそう暑くはない筈ですが、縁側の窓は網戸がなく、開けると蚊が容赦なく入ってくるので開けられないから、結局室内は蒸し暑くなってしまいます。家の中は年中カビ臭い様な臭いがしていて、母と私は特に嫌っていました。

しかしおじいさんは生きている間『まだまだ玲子の代までこの家には住める』と言い、建て直すつもりはありませんでした。むしろ、土間の部分を洋間の応接間に改装したいとも考えていたそうです。

 

第三節 引越[やどかり亭]

ここで私の事について触れておきましょう。

私は結婚して養子に入り、平松と姓が変わりました。そしてそれまで勤めていた大阪の会社を辞め、地元岡山の企業へ転職したのです。バブル崩壊直前でしたので、転職は思いの外すんなりと決まりました。結婚してからは岡山市の西外れの、古い空き家を借りて住むことになりました。この家も築年数不明(戦前からあったことは確か)で、本間の間取りの広い家でした。天井の松の梁からは、ヤニが垂れ下がってもいました。家自体が傾いているので引き戸の下は閉まっているのに上は5cm程開いていますから、その隙間を埋めるため三角の板が付けられてもおりました。しかし台所と風呂が改装されていたので、普段使う分には問題はなかったのです。

 「うなぎ亭」の居間の天井。

うなぎの寝床の様に長いので「うなぎ亭」とあだ名を付けて親しんでいました。最初に作ったホームページのタイトルにも使った名です。結婚して二年後に子供も産まれ、家族三人の生活が続いていました。

しかし6年勤めた会社を、私は辞めることにしました。ワンマン社長で(それは経営面もでしたが)、仕事中に幾度となく社長の私用に担ぎ出されもしましたし、仕事内容も職場の雰囲気もパソコンも(笑)、性に合わなくなったからなのです。

退職を機に引越を決めました。今の家に大きな不満があるわけではないけれど、少しでも支出を抑えるため、「羽島の家」の真ん前にある借家の内の空いている一軒に住まわせて貰うことにしました。親の所有なので家賃はタダ、目と鼻の先にある保育園は市の認可保育園なのでそれまでの私立に比べて保育料も安いし、おまけに妻の職場も近くなります。いずれこの地に住むのなら、地元の暮らし勝手とか近所つき合いとかを前もって確かめておくこともできるという利点も見逃せませんでした。

唯一の欠点は、借家が小さいことです。それまで広々した借家をのびのび使っていた我が家は、身辺整理を余儀なくされたのでした。まぁ実際には入りきらない荷物は、空き家となっていた羽島の家に放り込んでいたのだけれど。

一九九八年四月末、「うなぎ亭」から引っ越して来ました。借家を間借りしているので宿借り=「やどかり亭」とあだ名を付けました。

私は自営の道を模索しながら、主夫業に精を出すことになりました。新たなHomepageの内容を、その生活の成果?を中心に構成しています。

 

第四節 備え

いずれは『羽島の家』を建て直して、親子三世代揃って住むことは以前から決まっていました。近所の、父が一時勤務もしていたRSKバラ園の住宅展示場へ家族で出かけて行き、モデルハウスを見て回ったこともありました。住宅雑誌も思いついたときにポロポロ買い始め、望む家についてのイメージをしだいに膨らませていきました。

私が以前から行っていたパソコン通信であるNifty-Serve(現@nifty)のマイホームフォーラムを見始めたのもこの頃で、まだインターネットがブレイクする前でしたが、重要な情報源になりました。以来、今でもほぼ毎日アクセスして情報を収集しています。
そうやって情報を集めていき、夫婦でいろいろ意見を交わしていく内に、家への希望・大まかなイメージができつつありました。

・木の床、壁。梁の見える天井、屋根裏が直に見える様なのも良い。
・広い空間、高い天井。
・座ったり寝ころんだりが中心の、床の上での生活

これは「うなぎ亭」から受けた影響がかなり大きいと言えます。古い家なので隙間が多く不便なところがあるのはやむを得ないのですが、ヤニが落ちてくる梁や節の抜けた穴から光が射す階段といった”木”に囲まれた空間は落ち着いていて、快適でした。それに対して、安っぽい壁紙と新建材の天井の借家の生活には、二年を経過してもどうも落着かず、ぎくしゃくした生活感が抜けきらない様な気がします。
(これらは私達子世帯側の意見です。両親の思いは果たしてどうだったんでしょうか。)

 

第五節 三回忌

おじいさんが亡くなり空き家になった『羽島の家』ですが、すぐに建て替えを始められたわけではありません。法事がいろいろとあり、それらを催す場所として羽島の家が必要だ、と父が主張していたからです。ですから家族の反対を押し切って、汲み取り和式便所を水洗の洋式便所に改装もしたのです。もっとも、法事の度に近所の親戚筋から「早ぅこっちへ帰って来ねぇ」と催促されては、父は「そのうちに」と笑ってごまかしておりました。

1998年1月、おじいさんの三回忌が行われました。これ以降は七回忌迄は法事はありません。それまで父は、早く家を建て替えようという家族の意見に『法事があるから』と反対していましたが、七回忌は新しい家で行おうという気持ちになった様で、建て替え計画がいよいよ本格的に動き出すことになったのです。そして家族に
「どんな家にしたいのか、よく考えておけ」
と、指令を下しました。しかしそれは各自の好きなように家を作ってよいということではなかったのです。

 

第六節 前提条件

建て直すと言っても、それまでの「羽島の家」を踏襲する様な外観の家となることは自然に決まっていました。家族で相談し、庭と塀・門迄作り直す程の余裕はなさそうだという結論からこれらを残すことに決めていたので、それに合う外観というと「羽島の家」と似たような雰囲気の家になるのが筋だからです。

それよりも、父がまず第一に外観重視で、後に話し合った時
『家を建てるのは見栄を張る為じゃ』
とまで言い切り、住まいとしての役割を二の次三の次としか考えていなかったのが、実のところ最大の要因だったのです。ですから入母屋屋根と蔵と二間続きの和室を頑として譲ることはありませんでした。「羽島の家」=「本家普請」という意識が根底にあったからでしょう。

また、父は建築工事をすぐ近所の父の同期の人がやっている工務店に頼むものと決めてかかっていました。

これらのことは家族と事ある毎に意見がぶつかる原因になっていたのです。

 

目次冒頭へ|第一章|第二章第三章第四章第五章第六章第七章第八章第九章


Home食材外食献立レシピ厨房家事節約DIY建築|Audio|Mac近況横顔瓦版